2024/4/4
Thu
00:12
逸見政孝、ガン公表までの隠密手術と妻の土下座懇願★壮絶「芸能スキャンダル会見」秘史…の巻
話題:芸能ニュース
「本当のことを申し上げます。私が今、侵されている病気の名前、病名は、ガンです」
都内の記者会見場で無数のフラッシュを浴びながら、人気司会者の逸見政孝氏がこんな衝撃告白をしたのは、1993年9月6日、午後3時過ぎだった。
当時、ガンは不治の病と言われた。
ガン=死という意味合いもあって、多くの視聴者がこの言葉に釘付けになったのである。
人間ドックで逸見氏の体に「初期の胃ガン」が見つかったのは、この年の1月。
手術により、それが悪性度の高い進行性ガンであると判明した。
5月を過ぎた頃には腹の手術創が化膿したように隆起していたとされるが、逸見氏と親しかったテレビ関係者は時を経て、私の取材にこう答えている。
「まだ本人への告知が一般的ではない時代。主治医も逸見さんや家族に『早期発見』だと説明していたんですね。そのため、入院した逸見さんも十二指腸潰瘍と偽り、1カ月休養。胃の4分の3を摘出する手術を受けて仕事に復帰したのですが、根本的な治療が施されたわけでもないため、数カ月後にガンが再発した。それでも夏休みを利用して手術を受けるなどして、複数のレギュラー番組をこなしていたんです」
ところが回復するどころか、容体は悪化するばかり。
しかも「別の医師に診てもらった方がいい」という家族の言葉に対し、逸見氏は「ガンを見つけてくれた先生に失礼だ!」と耳を貸そうとしない。
最後は妻の晴恵さんが土下座して、9月3日の朝、東京女子医大病院を来訪。
「進行性のスキルス胃ガン」と告げられることになる。
会見の前夜、逸見氏は1人自室で、話す内容や構成を繰り返し熟考したというが、前出の関係者が振り返る。
「とにかく本人としては、臆測で記事を書かれるのは本意でない、という思いがあったのでしょうね。ただ、命の期限を宣告された人間が、自分自身のことをあれだけ客観的に語れるとは…。あの精神力には本当に驚かされました」
会見の終了直前、「生還してください」という報道陣からのエールに、「闘いに行ってきます」と応じた逸見氏。
だが、そんな思いも天には届かず、3カ月後の12月5日、家族に見守られながら静かに息を引き取った。
享年48。
逸見氏が命を懸けて行ったこの会見により、まだ一般的でなかった「セカンドオピニオン」が世間に広がるきっかけになったことは、紛れもない事実である。
まさに、ガンという病気に対する世間の認識を大きく変える記者会見だったのだ。
(アサ芸プラス発)
実弟もスキルス胃癌で亡くなってるのに、初回に胃全摘しなかった。
早期と言って部分切除で済ませた。
再発が縫合部からだった様だし。
がん宣告後、どう治療していくか、そしてどう生きるか。
患者本人や家族が納得して治療・決断するのに欠かせないセカンドオピニオンやインフォームドコンセント(十分な説明と同意)の考え方は、逸見の死後に広く普及したようだ。
>再手術にあたり、逸見が前田昭二院長に直接「執刀をしてくれますね?」と尋ねた際に、前田院長から笑みを浮かべながら「丁度その頃、僕は夏休みに入っているんだよなあ」と、思わぬ返答をされ、代わりに副院長が手術する方針であることが告げられた。
>さらに前田院長から勧められたアメリカでの民間療法が直前で取り止めになったことから、逸見は次第に前田外科への不信感を抱き始め、晴恵や三木社長らの勧告もあって、同年9月3日にようやく東京女子医科大学病院へ。
>午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告される。
>そして、羽生冨士夫教授をはじめとする医師団からは、触診の際に「何故ここまで放っておいたのですか!?」と非常に厳しい口調で叱責され、厳しい現状を告げられた。
そのことを受け止めた逸見は、東京女子医科大学病院での手術を決意した。
↑ヤブ医者、いるから。(´д`|||)
不審に思ったら、セカンド・オピニオン。
ブー(^0_0^)
(^^)/(^^)/
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