「私は、とても愚かだったのです」
そこは、魔王が住んでいると言うにはあまりにも美しい森深くであった。
泉が湧き上がる音、木の葉の擦れる音、優しい陽光、少し寂れた蔦まみれの小屋。
そしてそこに、魔王と呼ぶには可愛らしい少女がすんでいた。
肩までのくすんだ銀の巻き髪、サファイアの石のような澄んだ瞳、身長150cmに満たない痩せた、小さな身体。
彼女は今日も1人、質素な食事をして一日を何と無く消費していた。
魔王は本来、自らの魔力と魔物を従え自らの欲の為に生きるものであり、人間の敵となり得るものである。
しかし、この魔王は何も動く事はなくじっと、ただ日々を浪費しているだけである。彼女の望みは、「人に迷惑をかけず、穏やかに生活する事」という、魔王とは思えぬ平凡なもの。
その平凡な願いを非凡な彼女が叶えることが出来るかといったらーー恐らく困難であろう。
何故なら、魔王は大の魔物嫌いーーというよりも、魔物を恐れていたのです。
魔王は、元を辿ればただの物静かな少女でしかありませんでした。
小さな名もない村に、まだ少女であった魔王と、悪戯心の強い少年がいました。
少年が悪戯するのを少女が後ろで見て、時折「やめようよぉ、」とか弱く声を掛けるといった関係でした。
それでも一緒にいてくれる少年の事が少女は好きだったーーというよりは、依存していたという方が正しいかもしれない。
少女は他に同じ年頃の友人がいなかったのである。
魔王として生まれた彼女は、周囲にも影響を与える程の魔力を持っていた。
とはいえ、魔王というものに血筋は関係ない。ただ、魔力に好かれる才能があればいい。それも、人並外れたものである。
魔力に好かれればそれだけ、その人物は強い力を獲得する事が出来るのである。
たまたま、普通の人間の夫婦の間に生まれた子が、その才能を持っていただけに過ぎないのである。
だが、そこは小さい村。
魔法学を学ぶ場所もなく、魔法を使える者も片手で数えられる程であった。
だから、それに気づく者はこの村にはいなかった。
そして、だからこそ、この"勘違い"が起きたのである。
それは二人の冒険ごっこの途中で起きた。
「なー、シルヴィア!」
と呼ばれて、少女は転ばないよう注意深く見ていた地面から顔を挙げた。彼女が魔王になる前の名前である。
「なぁに?トーマくん、」
トーマ少年は「これこれ!」と手招きして古びた石碑を指差す。
殆ど掠れているが、「魔法」「封印」「魔道士」などの単語が書かれているのは辛うじて分かった。
「こんなの、あったんだね」
村を囲う森の少し中に入ったところ。埋まってしまった地下への階段と倒れた石柱、それに彫り込まれた謎の紋様、何かの遺跡がそこに在った。
一体どれほどの月日が経っているのか、風化も激しく苔や蔦だらけで、どこか神秘的にも見えた。
そしてそこに佇む石碑。子どもの心をくすぐる単語。
「これ、ぜってぇこの下に、すげぇ魔法とか封印してるんだぜ!それかつえー魔物!」
読んだ本の影響なのか、うきうきと御伽噺のような予想をするトーマを見て、そういった類のものを読まないシルヴィアはイマイチ想像がつかずに首を傾げた。
「かっけェー!俺もすげぇ魔法使ってつえー魔物倒す勇者になりてぇなー!」
「トーマならなれるよ」
「だよなー!へへ、早くなりてーなー。こう、手から火を出したりするんだぜ」
「勇者って火を出すの?」
「火を出すっつーか、魔法使ったり、でっけー剣とか振り回して悪い奴を倒すんだ!魔王とか倒すのが仕事なんだぜ!」
トーマ少年の言うように、勇者とは魔王や魔物の討伐を仕事とする者である。
魔王は人に害を為すものであると考えられているが故に、それを排除するべきであるという考えからだった。
勿論、全ての魔王が害なすものである訳ではないのだが、人並外れた魔力を持つが故に悲劇を起こしたり、野心に囚われてしまうのが大半であるが故である。
そのため、悪さをする魔王が目立ち、勇者はそれを打ち倒す、というのが基本となる。それ以外の魔王は、勇者の味方となり助けるという例も稀ではあるが、存在する。
「すごいね」
身振り手振りをしてはしゃぐトーマに対して、後ろに腕を組んで静かに笑うシルヴィアだったが、子どもらしく微笑ましい光景だった。
ふと、埋まってしまった階段を見ると、トーマはシルヴィアの手を引いて側まで歩み寄った。
「すげぇ魔法使えたら、こんな土に埋まったところも通れるように、出来るかもな!」
そんな話をした直後。
大きな轟音と共に地面が縦に揺れた。
楽しいひと時は中断され、二人は立っていられずに地面にへばりつくようにしてその揺れを耐えた。状況を理解する前に、ただその揺れに恐怖し悲鳴をあげた。
ようやく、その揺れが収まった頃、トーマは焦りと恐怖からか、汗を流して放心した面持ちで顔をあげた。
シルヴィアも涙や他の液体で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、それを袖で拭いながらようやく座ることが出来た。
「……くっそー、なんだったんだ今の……」
恐怖し震えてしまった自分を誤魔化すように立ち上がり、わざとイラついたような声色で言ったトーマは、振り返った先にある光景を見て固まった。
「なん、だ、これ」
シルヴィアもトーマの視線の先を見る。そして、動揺に固まる。
一瞬で理解するには大きすぎる変化。
まず、石柱の下にあったと思われる床が浮き上がり、白い肌を見せているのが一つ。先程までは絶対になかったものである。
そしてもう一つ。
土で塞がれていた地下への階段の先が、ぽっかりと口を開いていた。
その先に何があるのかは、暗闇に隠されて分からないが、さほど長く続いている階段ではないようで、階段の終わりまでは確認する事ができた。
「す、すっげぇ!!!ダンジョンだ!ダンジョンが現れたぞシルヴィア!!」
トーマは興奮を抑えきれない様子でシルヴィアの肩を掴んでガクガクと揺らした。
シルヴィアはまだ頭が追いつけない様子で、とりあえず揺らされ過ぎて気持ち悪いから落ち着いて欲しいと思っていた。
「……選ばれたんだよ、きっと」
少し落ち着きを取り戻したトーマが言う。瞳はキラキラと輝いている。
「呼んでたんだ!きっとこのダンジョンが、俺の事を待ってたんだよ!なぁ、そうだろ!だからこんな事が起きたんだ!!」
ダンジョンが呼ぶ、というのはシルヴィアにはよく分からない表現ではあったが、トーマが言うのだからそうなのだろうと考える事にした。
偶然か必然かなど、シルヴィアには問題ではなかった。問題であったのは、トーマがなんの躊躇もなく階段を降りようとしていた事である。
「ちょ、ちょっと待ってトーマ!危ないよ」
「何でだよ、新しい場所に行けるんだぜ、楽しみじゃねぇの?」
「だ、だって真っ暗だし……そういうところには怖い魔物が居るっておばあちゃんが……」
ごにょごにょと言い訳のように引き留めようとしたシルヴィアだったが、次の言葉がシルヴィアの身を凍らせる。
「じゃあ俺ひとりで行くからいいよ」
膨れっ面で、拗ねたように。
シルヴィアはこの階段の先は危険であると本能で感じていた。得体の知れないこの先に、トーマが一人で行ってしまったら……。
「……分かった、でも。家から明るいもの取ってくるから、それまで待ってて!絶対だよ!」
せめて明かりさえ有れば、何か危険があってもすぐに気づき回避する事が出来る。一緒に連れて行こうかとも思ったが、どうせ見失ってしまったら嫌だとか駄々を捏ねるに決まっているのだ。
シルヴィアは、トーマ一人を残して灯りを取りに戻ってしまった。
トーマが変わってしまったのは、その日から。
その日、二人の運命が決まってしまった。
灯りを取って戻って来たシルヴィアが見たのは、持ち手に鉱石の飾りのついた、錆びた細身の剣を持つ、トーマの姿であった。
「……トーマ、それ」
「お前が遅いから先に入っちまったよ」
がくりと頭を垂れるシルヴィアの背中を、トーマはからからと明るく笑いながら叩く。
「思ったよりそんなに広くなかったんだよ。中は暗かったけど、不思議とこの剣だけが浮かび上がって見えて。運命感じたぜ!」
「……よかったね」
怪我がなくて。
シルヴィアは心底そう思ってため息をついた。
それから二人は村に戻り、トーマは他の子どもや大人にその剣を自慢して回っていた。
何かを切れるほどの鋭さや重さもなかった事から、大人達もおもちゃを掘り出したのだと油断していた。
異変は翌日から起きた。
「俺の中には魔道士の血が流れてる」
トーマは、こんな事を言い出し、自分の力を誇示するようになった。
元々目立ちたがり屋なところはあった為に、それについて誰も気に止めていなかった。
誰も気に止めていない事に気がつくと、気を引果物為なのか、直接暴力を振るうようになった。
殴り、蹴り、罵声を浴びせ、錆びた剣を突きつけたりもする。
大人は止めて、その剣を取り上げたり捨ててきたりしたが、どこからかまた見つけてきて持ち歩く。
更には、何処で覚えたのか小さな魔法を使うようになっていった。
シルヴィアに対しても、あまり話を聞こうとせず、冷たい態度をとるようになった。
やがて、村の人はトーマを避け始めた。
トーマに近づこうとするのは、いつしかシルヴィアだけになっていった。
「……と、トーマ……ねぇ、やめようよ。顔色、凄く悪いし……ご飯もちゃんと、」
「うるさい!!」
勢いよく振り払われ、シルヴィアは思わず食器と共にトーマの夕食を落としてしまった。身がすくむ。
家族でさえトーマに近づこうとしなくなり、トーマを気づかえたのはシルヴィアぐらいであった。
以前と比べ、少し痩せた。濃くなった隈のせいか、以前よりキツイ印象となった。
部屋に灯りがないおかげで、より暗く見えた。
シルヴィアは恐怖を覚えていた。
大切な人が、徐々に壊れて行く恐怖。離したくなくて、失くしたくなくて、でも、逃げたくて。
けれど、彼を失くしたら、自分に何が残るのかも分からず、離れられなかった。
彼をこうして気づかう自分も遠巻きにされているというのに。
だから、こうして元に戻って欲しくて声をかけるがーー結果はいつも同じ。色んな言葉を試すが、変わらない。
変わった事と言えば、気味の悪い笑みを浮かべるようになった事と、シルヴィアに依存しているような言葉を掛けるようになったこと。
どちらも、いい変化とは呼べなかった。
「なぁ、シルヴィア。お前は、俺が強いって信じてるか」
「信じるも何も、トーマは強いと思ってる。この村で……いや、世界で1番……」
トーマはシルヴィアを抱きしめる。
シルヴィアは、嬉しいのに、何処か空っぽな気持ちを感じていた。
トーマが、まるで別人になってしまったようにシルヴィアは感じていた。
「そうだよ、俺が、1番強いんだ」
吐息と一緒に、喉に掛けたような掠れた声を漏らす。
声変わりがあったのか、それとも別の理由か、少し低い声。
ぞわりと、シルヴィアの背筋に悪寒が走る。
「でも、この村の連中はそんなこと信じやしねぇ。キチガイだと相手にすらしねぇ。だからさぁ……証明してやりてぇなぁ……」
笑みを零してギリリとシルヴィアの肩を掴む。
シルヴィアは声を漏らすものの、抵抗はしない。
「わかるか?……この村を、ぶっ壊すんだよ……」
「っ……なんで、」
「単純で分かりやすいだろ?皆、俺の力の前で恐怖に慄き、自分の間違いに気づく。命乞いをする。あぁ、アァ……!!見たいなァ?」
闇に、浸食されていく。
暗い部屋、窓から覗く青い月も、どこか狂気をはらんだように、暗い。
シルヴィアは、身体を震わせながら、必死に自我を保とうとトーマの身体にしがみつく。じっとりと汗がまとわりつく。
「シルヴィア、お前がいれば何でも出来る気がするんだ」
それは、シルヴィアの中でとてもクリアに聞こえた。
今までの流れが嘘のように、それは明るい言葉に思えた。
驚いて目を見開く。
「お前は、ずっと俺と一緒に居てくれるよな……?」
その甘い言葉に、シルヴィアは引き込まれてしまったのだ。
「……おい、なんか、村の中の方がやけに騒がしくないか?」
「何だ?収穫祭はもっと先の筈だろうに」
森の中から、何かの声がする。ヒソヒソと、人目から隠れるように。
正体は夜と木の陰で分からない。
「なんだかさぁ……ご馳走の匂いがするんだよなぁ」
「ちょっと上から見てくるか」
バサッと大きな羽音がして、空気の動きで木の葉が揺れた。
「……どうなってる?」
返ってきたのは、実に楽しそうな弾んだ声だった。
「すげぇぞ、村が火の海だ」
悲鳴。子どもの鳴き声。建物の崩れ落ちる音。
ーー辺りを焼き尽くす、炎の轟音。
熱い。肌が乾燥してしまいそうだ。目がすぐに渇いて目が痛い。
燃えカスが時折飛んできて、顔や腕に当たる。とにかく熱い。
だというのに、彼は目を大きく開き、愉快そうに笑みを浮かべて立っていた。
トーマが起こしたものは、シルヴィアがいつも見ていた魔法よりも、ずっと大掛かりなものだった。
普段であれば、少しボヤを起こす程度の小さな火を出す程度。
だというのに、今日は一瞬にして、辺りを火の海に変えてしまった。
正直、シルヴィアが考えていた以上であった。
止められなかった自分を悔い、シルヴィアは唇を噛んで涙を零す。
そんなシルヴィアをよそに、トーマはご機嫌だった。
「ははははっ!すげェなぁ!本領発揮ってヤツだな!ははは、見ろシルヴィア!全部燃えてる!」
シルヴィアはその様子に素直に恐怖する。
今からでも、これ以上はやめるように止めなければ。
「……と、トーマ、もういいでしょう、火を消し、」
「お前のお陰だなシルヴィア!」
トーマにそう笑いかけられ、シルヴィアは身体を強張らせた。
汗が頬を伝う。
「お前がいれば、なんでも出来る気がしたんだ。俺がこんな力を出せたのは、お前のお陰だ!」
シルヴィアは、心の底からトーマがわからなくなった。
本当に、自分といたから、彼はこの強さを手にしたというのか。
自分を、想っているというのか。
「お前が居てくれて良かった!」
こんな事を言って貰えても、少しも嬉しくなかった。
シルヴィアは激しい虚しさを感じずにはいられなかった。
それはつまり、自分のせいでこの惨状を招いてしまったのを意味するからだ。
「ーーその通り。その子が居て良かったね、少年?」
空の方から、声が聞こえた。
どこか人間離れした声。
二人は上を見上げる。
そこには、無数の、おびただしい数の黒い影。
「ひ、いやあああああ!!!?」
トカゲに翼が生えたようなものから、節足動物にいくつもの眼球をとりつけたようなもの、また、つるりと蛇のようなものと実に多様な姿をしている。
ーー魔物だった。
シルヴィア思わず、ずるりとその場に崩れ落ちた。
腰が抜け、身体が恐怖にカタカタと震える。
それに対して、トーマの方は姿勢を崩さずに真っ直ぐ立っていた。
無数の魔物を見据え、あの錆びた剣を突きつける。
しゅるっと、剣の周りに風が巻いたと思うと、錆や傷は何処へ行ったのか、その剣は炎をギラギラと映すほどに新しくなった。
「邪魔をするな、化け物。消されたくなければ、今すぐ立ち去れ」
「へぇ、随分と偉そうじゃん。人の力借りておいて、よくそんな事言えるよねぇ。まぁでもさぁ、」
ちらりとトカゲの姿をした魔物がシルヴィアを見る。シルヴィアはひっと悲鳴を上げて身をすくめる。
それを嘲笑うように。
「楽しそうだから、村襲うの手伝おうかな、って思って」
え、とシルヴィアが声を漏らした後、トーマは含んだような笑い声を漏らし始めた。
「っふふ、お前らが俺の手伝いをするって訳か。あははははははは!!いいだろう、人間よりは魔物の方がまだマシかもしれねぇなぁ!ははははははは」
トーマの高笑いを聞いて、シルヴィアはゾッとする。
そして、確信。彼はもう、少なくともシルヴィアの知る"トーマ"ではないのだ。
高笑いが治まると、トーマは口元に笑みを浮かべながらこう言い放った。
「いいだろう……好きにこの村の奴らをいたぶってこい」
そのトーマの声を合図に、魔物の群れがざわりと動き出した。
そして、悲鳴が再び上がる。
恐らく、火を消そうと水を掛けていた人々だ。
襲われた人々が次々に悲鳴を上げて逃げ惑う。
子どもの泣き声も聞こえた。
シルヴィアは堪らなくなって耳を塞いだ。
もうダメだ、こうなってしまったらもう遅い。この村は助からないだろう。
トーマと、この魔物達によって滅ぼされてしまうのだ。
それに、自分も加担している。
(……ごめんなさい)
この村での思い出が次々と浮かんでは涙が零れていった。
素朴だけど、自分も遠巻きにされてしまったけど、それでも暖かい村だった。
トーマだって、いつも自分をいろんなところに連れて行って楽しませてくれた。
楽しかった。あの笑顔が好きだった。
それに自分の祖母も、両親が死んでからずっと見守ってくれていた。
なのに、自分はそれを壊そうとしている。
「あなたは、本当にこうなる事を望んでいましたか」
背後から声がした。
さっきのトカゲのとは違う、低い声だった。
「あなたは、彼に協力する事を望んでいる。なのに何故、涙を流しているのですか。後悔を、しているのですか」
トーマが目の前に居る。
自分を見下ろしている。
あの日とは違う目で、自分を見ている。
「貴方の望みを、おっしゃってください。貴方は本当ならば不可能を可能に出来る方。この少年に縛られているだけなのです。さぁ、」
魔物とは思えない、優しい声色。
それが、彼女シルヴィアの感情を爆発させた。
「……めて、」
「はい?」
「今すぐ、こんな恐ろしい事をやめて!!今すぐ!!」