思わせぶりはきみの特技だ(ヒロマリ)

騒がしい弟を持つ身として、休日にゆっくりと本を読める時間は貴重だ。
弟には弟の世界があり、わざわざ俺のいる教室に姿を見せることは殆ど無い。平日は学校の休み時間、放課後に好きな本を借りて読むことが出来る。だが休日となると友人と遊ぶ約束や勉強の予定を入れていない限りは家にいることが多くなるのは当然だろう。そして、家では弟と自分の部屋は共同であり、弟は俺のことを放っておかない。よしんば一人で遊んでいたとて、コミックに大きな声で笑ったり何やら良からぬ企みごとをしていそうだったりで、俺が無視できない。
それに加えて、俺の家の隣にはマリとサニーという姉弟が住んでいて懇意にしており、他にもオーブリー、バジルという6人組で遊ぶことが多い。自分より年下の存在が4人もいて、うち2人はとても活発とくれば、見守りが俺ともう一人いるとはいえゆっくりと出来る時間はあまりない。その立ち位置は嫌いではないが、俺だって自我ある年頃の少年だ。一人でゆっくりとする時間が欲しいと思うのは自然なことだろう。
ある日、湖にピクニックに訪れた。短な草の上にピクニットシートを敷き、バスケットから取り出されたグラス、皿、少しの食材、それと眠ってしまったケル、サニー、オーブリー、バジルが並べられている。そこらじゅうで走る、泳ぐをして楽しんで、陽気な陽射しに包まれて気持ち良さそうに眠っている。風が木々の葉を揺らす音も聞こえる穏やかで静かな時間。そのギフトに、心置きなく身を委ね、読みかけの本を開く。さて、どこまで読んだか、とページをめくれば、背中に重みと共にふわりといいかおりがする。

「ヒロくん、なに読んでるの」
「ホーキングの最新宇宙論...」
「ふぅん、難しそうだね」
「面白いよ、マリも読む?」

うん、じゃあ一緒に読もうかな。ページめくって。
マリのその声はとても近くで聞こえる。耳元で発されているので当然なのだが。マリは本を開く俺の後ろから抱きつき、肩に顔を置き、胴に手を回し、俺の手元の本を覗き込む。寝息をたてる4人がすぐそばにいる。そんなこと気にせずにマリは楽しそうに本を見る。いや、本なんて読んでなくて、俺の反応を楽しんでいるような気もする。顔に熱が集まっているのが自分でも分かる。背中に柔らかい感覚があり、本のページをめくる調子は乱されに乱されている。

「マリ、あの、本はあとで貸すから」
「うん?」
「これじゃ集中できないし」
「ふふ、ヒロくんたら分かってるくせに」

わざとだよ、と耳をくすぐるような声がする。そうだ、マリは宇宙の本になんて興味ない。昔からそうだ。でも、分かっていたところでどうすれば良いというのだ。天気のよい日に今日はピクニックをしようとみんなを誘ったのも、みんなが元気に走り回るような遊びに誘導したのも、走り終わったあと皆が満腹感を覚えるような軽食を用意していたのも、マリの計算で、俺だけが眠らないのも、マリの計算だとしたら?それに逆らう道理もない。そうして俺は彼女の計算のままに彼女のことを今日も好きになっていいのだろうか?振り返って見る彼女の表情からは、それは分からない。





















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ヒロマリ(omori)
小悪魔7題
2.思わせぶりはきみの特技だ (計算された優しさも)

わかっていたのに虜になった(ヒロマリ)

ケルが飼いたいと言うから飼い出したが、ヘクトールは実際かわいい犬だった。
ご飯を一心不乱に早食いしてしまう癖も、そのくせに空っぽになった餌皿を見てもうないですけど?と言いたげに首をかしげるところも、ボール遊びが好きなところも、ボールを投げるふりをしたらそこに無いボールを探してしょんぼりして帰ってくるところも、散歩は全力なところも、俺が学校から帰ってきたら千切れんばかりに尻尾を振るところも。自分をひたむきに見てくれる愛らしさが胸を打つ。言葉が喋れないのが逆に良いのかもしれない。ヘクトールの気持ちは己の解釈に委ねられるので、どこまでも都合の良い味方でいてくれるのだ。自分できちんと世話をするからという弟の約束には不安があったが、ケルが万一世話をしなくなっても、俺はヘクトールをかわいがってやろうと思った。定期的な予防接種につれていき、バランスを考えた餌を与え、適度な運動と、愛情を与えよう。一週間前に体を洗ったふわふわの毛並みを撫でながら、そう心に思った。

「ふぅん、そんなにかわいいんだ。」

上記のような感想をヘクトールが家に来て少しした頃に幼馴染みの女の子に話すと、ニコニコと話を聞いてくれる。彼女はヘクトールのいる小屋の前を通って俺の部屋に来ており、ヘクトールとも少し遊んだ。けれど返事は少しそっけないもので、そういえば彼女は猫を飼っていたことを思い出した。犬のかわいさを伝えすぎたのが、つまらなかったのかもしれない。庭先では楽しそうにしていた彼女の顔を思い出して、悪いことをしたなとひとりごちた。

「ごめん、つまらなかった?」
「うぅん、ヘクトールはかわいいし私も大好きだよ」

だが明らかに普段より笑顔をつくる口の端の角度が浅く、彼女の不機嫌は明白だった。理由がわからず思考を巡らせていると、今日はヘクトールへのプレゼントを渡しに来たのだ、と簡素な紙袋を俺に手渡す。感謝の気持ちを述べれば開けてみて、と促すので、その指示の通りに袋を開けたら金具が洒落た赤色の首輪が入っていた。既にヘクトールの首にはケルが選んだ首輪がつけられていたが、古くなればまた買うことになるのを考えると首輪も適切なプレゼントで、何よりその気持ちがありがたい。素敵な首輪だね、と感想を口にした次の瞬間、マリは楽しそうに笑った。

「そうよね、素敵よね」
「うん。早速ヘクトールに見せに、」
「ねぇ、ヒロくん。その首輪、ヒロくんに似合うと思うの。」

やっぱり私まだ、犬のかわいさがよく分からないから、ヒロくんが犬になって私に犬のかわいさを教えてよ。
機嫌がなおったのかな、良かった。と顔をあげた瞬間彼女の口から出た言葉に俺は凍りついた。俺が首輪をつけて、彼女の犬になる?一応、ここは俺の家で、俺の部屋で、ドアも鍵もあるにはあるけど、弟の部屋でもあるし、母さんも下の階にいるし、いつ誰が来るか分からないのに?

「私が目の前にいるのに他の子の話をするワンちゃんには、躾をしないと。」

やらない言い訳の言葉を探すけれど、そこに俺がやりたくない、という言葉は入ってないということに、気付いてしまった。何より彼女の目が三日月のように美しく歪むのを見ては、逆らう気など湧いてこない。何よりその提案は俺に対する独占欲、ヘクトールへの嫉妬から来ていると思うと、かわいらしさに脳の芯が痺れる感覚がする。彼女が幸せならそれでいいと思える。自らの手から、彼女の手に、プレゼントされた首輪を渡す。首を差し出すと、目の前に彼女の顔が迫り、髪のいい香りが鼻腔を擽り、耳元でガチャガチャとうるさい金具の音が、俺の心臓の音をかき消した。

「...わん」
「ふふ!上手。やっぱり似合ってる。」

まだ空に上る太陽は高く、窓からは明るい日差しが差し込み、俺の姿を明るく照らす。こんな時間から、誰が来てもおかしくない密室で、ベッドの上に座り笑う彼女と、床に座り鳴き声を出す犬の俺。あまりに倒錯的だ。ただの幼馴染みとは思えない光景。こんなことはおかしい。それは彼女の提案を聞いたときから分かっていた。

「かわいいね、ヒロくん」

けれど、この愛しいものを見るような笑顔と、甘い声色、俺の髪を撫でる柔らかな手つき。彼女から逃れられないこともまた、分かっていた。



















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ヒロマリ(omori)
小悪魔7題
1.わかっていたのに虜になった (甘すぎる笑顔の罠で)

敬虔な誘惑者(ヒロマリ)

※モブ視点

ヘンリーは変わった人だ。
大学に入学して暫くは本名で呼んでも少し返事が遅れるので、学年ではあれは偽名なのではないかと噂されていた。教材の良し悪しの話をしたり進級対策の過去問を貸し借りをするようになった頃には親しみを込めてハリーと呼ばれることが増えたが、その愛称にも少し居心地が悪そうにしていたのを覚えている。
彼は勉学が出来、料理も得意で、人当たりも良く、優しい。人の心が分かる人で、技術のみで医事に関わらなさそうなところが、医者に向いてそうだねと言われていた。顔の作りが良く、コミュニケーション力もあるというのは医学科の男子学生には珍しく、人当たりのよさもありそれこそ入学当初はよく女子にモテていた。けれど、すぐにアパートの部屋に恋人の写真を飾っているのを発見され、その恋人の容姿まで事細かに100人ほどの狭い村のようなコミュニティに流布され、その人気はやや落ち着いた。どんな美人の誘いも断り、浮気のワンナイトの誘いにも靡かない。
それに、いつもどこか遠くを見てぼんやりしている。気が付いたら空に飛んでいってしまうのではないかと思わせる空気が、彼にはあった。医学生のうち3割はうつを発症するということは当事者としては当然知識として持っていることであり、友人達の間では彼は真面目だし気を付けた方がいいと言われていた。とても普通の人なのに、まるでフィクションの人みたい。
その様に、彼は変わり者が多い医学科の中でも少し浮いた存在だった。


アメリカでの成人年齢は18歳だ。それに対して飲酒可能年齢は21から。だが、もう大人なのにのめないのはおかしいだろうと、通過儀礼のように18から酒をのんでいる者は多い。パブなどの公の店では身分証の提示を求められるし、店で買うことも出来ないが、21以上の人が酒を購入してきて部屋の中で限定して飲酒、それを秘匿すれば刑に処されることはない。医学科大学生は卒業学年では最年少でも24にもなるので当然付き合いとして飲酒の習慣はある。それがたとえ入学したての1年生であろうと。そして、酒の場で悪のりをする学生というのはどこにでもいるものだ。
ある冬の日、お調子者のハリーのクラスメイト(そして私のクラスメイトでもある)がハリーをからかってやろうと言い出した。彼があまりにも写真の恋人のことを話さないので、酔いが回った頃に写真の彼女の格好をした女子が出てきて、彼の乱れる姿を見よう、との提案だった。そういうプライベートを暴くのは良くない、と言いたかったが、その提案に乗る人間があまりに多く、ノーを言えるような空気ではなく。何せ彼は彼女のことを何も話さない。どんな性格か、どんな思い出があるか、名前すらも、誰一人として知らないのだ。ゴシップに飢えた年頃の男女ばかりのこの小さな村では、そのフラストレーションが溜まっていた。そして運の悪いことに、一番写真の彼女に似ている女子というのが、私だった。私は白いブラウスにプリーツスカート、リボンタイをして、長いボリュームのある黒のウィッグを被り、皆の思惑通りにすっかり酔いが回り夢見心地の彼の前に出ていくことになった。

「マリ...?」

気は進まないものの、ここでなにもしなければ空気の読めない奴としてコミュニティから排除されかねない。うまくやろうと、起きてる?大丈夫?と声をかけて机に伏せて眠るハリーの肩を揺らすと、潤ませた目に私を映した彼は女性の名前を口にした。あの写真の女性は、マリというのか。周囲はその様子を笑いを堪えて見守り、無責任にも、もっともっと、とジェスチャーをする。どうにでもなれだ。

「そうよ、ハリー。私よ、マリ。」
「ふふ、嘘つき。きみ、マリじゃないんでしょ。ドッペルゲンガー?」

ハリーの指摘に慌てるが、彼の目はどう見ても正気ではない。酒に溺れ正常な判断力を失った虚ろな目。それでも騙しきれなかったのか。

「どうして?私よ、ひどいじゃない。」
「いるわけないんだよ。本物の彼女はオレが殺したんだ」

唐突に落とされた爆弾の様な発言に場にざわつきが広まる。ハリーが人を、殺してる?しかも恋人を?嘘でしょ?ただ事ではない秘密を暴いてしまったかもしれない、と焦るクラスメイト達に向かって、彼は意味ありげにニヤリと口を歪めた。ごくり、と言い出しっぺの彼が生唾を飲む音が聞こえるほどに静かだ。その静寂を破ったのは、他ならぬハリーの笑い声だった。

「ごめんごめん、冗談だよ」

マリのことを暴こうなんてタチが悪いね、残念。と軽く笑う彼に、場の空気は和む。何だよ、脅かすんじゃねぇよ、悪かった、お前は酒の場でも完璧だな、などとハリーを取り囲む皆が安心した顔で口々に心中を話すなか、私は凍えるような心地だった。
今回は私のような他人が似ていない変装をしたせいでばれたのかも知れない、と思うのも無理はないが、私は悪魔がマリに化けて本当に瓜二つの彼女がハリーに話しかけたとしても、彼はそれが本物ではないことに気付いたのではないかと思う。それは彼が本当に彼女を殺しているから?
私をマリと読んだ瞬間の彼の潤んだ瞳は、グチャグチャの情欲に溢れていて、その視線を向けられた私だけは、そう考えていた。



















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ヒロマリ(omori)

涙が枯れませんように。(ヒロマリ)

「最後に残る感情って、何なのかな」

感情とは心ではなく脳の信号から出来る情報なのだ、と箱形のテレビは賢しらに語る。その光る画面を観ながら、マリはそう呟いた。子供向け科学番組と侮るなかれ、教育チャンネルは子供にも分かりやすいように最先端の研究を教えてくれる。宇宙について教えるテレビ番組で分からない事があった時、父や母に聞いてもその疑問は自分達には難しい、と渡された大学生が読むような専門書を一週間もかけて読みきったことがある。その本の殆んどの中身は覚えていない。理解も出来なかったとおもう。ただ分かったのは、宇宙は数式で表すことが出来て、それどころか、世界の全てが数式で表現できるのだ、ということだった。その言葉の美しさだけを、よく覚えている。
感情にどのような役割があるのかと言われると、科学的に解明されてない部分も多いと思うのだけど、子供なりに考えてみると、感情は出来事を受け止めるためにあるのではないか、と俺は思う。感情がなければ世界には出来事だけがあって、良いも悪いも存在せず、脳はただ傷付いていく。
愛する人と心が通じたときに喜びという感情がなければ、その衝撃はひたすらに混乱を及ぼすだろう。
心ない言葉を投げられたときにムカムカとする感情がなければ、その言葉は身体を支配するだろう。
暗い森を進まなければいけないときに恐れという感情がなければ、危険に備えることもないだろう。
いさかいに巻き込まれたときに怒りという感情がなければ、理不尽に屈するだろう。
愛する人と別れるときに悲しみという感情がなければ、涙を流すことも叶わないだろう。
つまるところ感情は、生きていく上で起こる出来事に対するクッションのようなものだ、と俺は考える。
ならば死ぬときに最後に残る感情は何だ?というのが、彼女の疑問だった。死してはなにも起こることはない。脳も停止する。感情も共に死んでゆくのだろうと予想できる。

「悲しみなんじゃないかな。死んでいく人をおくるときには涙が出るから。」
「でもそれは、置いていかれた、出来事が起こった人の感情でしょう?死んでいく人って、自分が死ぬことを分かるものなのかな。」

それに、最後に悲しみが残ってしまうなんて、それこそ、悲しい。と、角度を深める首が優しく傅く。確かに、終わりの時が悲しみに満ちているのは、とても寂しいことだ。

「ヒロ、あなたの終わりが喜びのなかにありますように、って、祈ってもいい?」

なんて美しい祈りだろうか。
数式で今は表せても、未来までは分からないから、俺も祈りたくなった。彼女の終わりが喜びの中にありますようにと。



そして真実を知った今も、祈っている。
君は最後にサニーを救えて、死してなお感情をもち、喜びの中にいますように。俺はすっかり大人になって、あの時のサニーやケルの歳の子供がいてもおかしくないくらいになった。人々は薄い板を手に乗せ指で手紙を綴っていて、この薄い板でテレビまで見れるのだと話せば、君は俺のことを嘘つきと言うだろうか。それでも、今も君を思えば悲しみは心に溢れて、涙が頬を濡らす。けれど、これは俺の感情がまだ生きているということだ。いつか君を想っても何も感情が生まれない日が来れば、それこそ悲しい。終わりの時は君が迎えに来てくれると思えば、きっとその時の自分は喜びに満ちている。君が祈った通りに。だから今は、どうか涙が枯れませんように。君を思い続けていられますように。


















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ヒロマリ(omori)

逃げられない離れられないでも叶わない(ヒロマリ)

「人魚の血を飲むと不老不死になるんだって」

人魚姫の絵本をぱらぱらと指で捲りながら、マリが言う。細く白い指だ。ツリーハウスの西陽から差し込む光がその輪郭をぼやけさせるので、ひどく現実感がない。読む気のない指の動きのせいもあるのだろうか。たかだか20ページの子供向け絵本の中身など、暗記してしまった。その中には人魚の血が不老不死をもたらすなどとは書いていなかったはずだ。それどころか彼女は泡になって消える。いや、泡になったのならば自然と同じになり、不老不死になっているということなのか。それを言ってしまえば人間だっていつかは土に還り、新たな命を生む。全ての生物は地球という一つのいきものとなり、不老不死になるのだが。

「そうなんだ、知らなかった」
「日本では有名な伝説なんだって」
「不死は兎も角、不老は欲しがる人はいそうだね」
「でもね、人魚を食べてしまった人はその後、生きることに疲れて、暗くて狭いところに自らを閉じ込めて食を絶つことで死んでしまうの」

それって棺桶みたいよね、と寂しそうにマリは笑う。永遠を求めた代償に自らを永遠の暗闇に閉じ込められるなんて、皮肉な伝説だと思った。
永遠に生きる、か。
それはどんな孤独だろう。俺には大切な人がいる。目の前にいる彼女は勿論、弟のケル、父、母、親友のサニー、オーブリー、バジル、かわいいヘクトール。その全てが、自分を置いて、老いて、死んでいってしまう。取り残された時のことを少し考えただけで、鼻の奥がつんとする。このかなしみが永遠に続くなら、狂ってしまうかもしれない。

「人魚が死んでしまうまで食べなければ、その人は人魚と2人きりで永遠を生きれたのかな。」
「さぁ、どうなんだろう。でもさ、ずっと2人きりっていうのも、きっと1人で生きるのと同じくらい、孤独だよ。」

その人しかいないと愛し続けて、その人の肉を食べ、血を飲んだら、きっと2人は限り無く1人になる。と、マリは言う。そういうものか、と所在無さげなマリの手元をぼぅっと見てみると、彼女の白い指が夕日に照らされ赤くなっている。その中でも細い線のように際立つ椿のような赤がある。どうやら絵本のページの端で指が切れたらしい。手当てを、と動く前にマリが口を開く。花が開くようで綺麗だ。

「ところで、ねぇ、ヒロ」
「ん?」
「私が実は人魚だって言ったら、どうする?」

マリが人魚だったら?
徐に体勢を変え、テーブルの上の皿の上のクッキーの上に、マリの手が運ばれる。
マリの手は美しい白だ。その手はやさしく弟の頭を撫でる。その手は正しく皆を導く。その手は過ちから人を救う。その手は美味しいクッキーを焼く。
マリのクッキーは愛が込められているから美味しいのだ。そのクッキーに彼女の赤い手の傷口から出た血が滴る。ゆっくりと、スローモーションで、落ちる。赤い。椿の花が落ちるみたいに。

「このクッキーを、あなたは食べられる?」

マリがもし人魚だとしたら、このクッキーを食べれば俺は不老不死になる。マリと永遠に2人で、孤独を生きることになる。
マリが人魚でないとしたら、俺は死ぬべき時に死んで、彼女もまた死ぬべき時に死ぬのだろう。神様の決めた通りに。
答えなんて決まっている。俺は滲む赤のついたクッキーを口にした。いつもと同じ、美味しいクッキー。マリは満足したように笑った。

「ヒロのおばかさん。」

可哀想なものを見るような、憐れむ彼女の視線に、愛しさを覚えて、俺はばかでもいいよと思えた。本当に、愚かで考えなしの若さがそこにあった。人魚を食べた人間と同じく愚かしい。可哀想で、憐れな、お馬鹿さんだった。



マリが人魚だったのか、そうでなかったのかは、今も分からない。
マリが人魚でないからマリは死んだのだ。俺の背が伸びているのも彼女が人魚でなかった証拠だ。と言われれば、なるほどそうなのだろう。
けれど、彼女が土に還り、永遠の存在になったのに1人生きなければいけないこの孤独は、まるで永遠のように長いのだ。彼女が人魚だったと言われても、信じてしまう。ならば俺はいつかこの生に疲れ、食を絶ち、暗く狭い場所に己を閉じ込めて、死ぬのだろうか。マリの語ったあの伝説のように。
2人で永遠に生きられるなら、それもいいと思えた。けれど君を愚かさから喪って1人きりで生きるには、人の一生は長すぎるよ。


















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ヒロマリ(omori)
血液を舐めるのは感染症の危険もあるので良くないよ。
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