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掌。



多くの皺が刻まれたそれは、生きた証で。
多くの血を吸ったそれは、人殺しの証だ。





乾き気味の目を何度か瞬いて、レノは最近発売されたアクションゲームの画面へと視線を戻す。
室内だというのにわざわざヘッドホンを携帯ゲーム機へと接続してプレイするのには大きな理由と原因とがあった。
レノは確かに一番落ち着く自室にいる。居るのだが、其処にレノ以外の人間が居座って、飽きずにレノを観察しているとなれば、耳も塞ぎたくなるというものだ。

もうすぐシナリオクリアだ、そう思った時だった。先程から突き刺さっていた視線の質が変容した。
ぞわり、と全身が総毛立ち冷や汗が滲んだ。
レノはシナリオクリアを諦めてそっと画面から視線をあげて、鋭い双眸を恐る恐る見る。
この日、初めてまともに見たかもしれないその双眸はどこからどう見ても不機嫌で、その癖口元はニヤリとした笑みに歪んでいる。
ああ、と、内心でレノは嘆息する。
これは間違いなくもっと早い段階でゲームを諦めるべきだったのだ。ゲーム命なレノにとってはかなり辛い選択ではあるが、この後の事を考えるとゲームよりはやはり自分の身の方が可愛いのである。

さて、どうしたものか。レノは途方に暮れる。選択肢を間違えれば、明日に響くだろう。けれど、逃避なんてしてみろ、命知らずもいいところだ。
この男は、絶対に逃がすつもりなんてない癖に面白がって鬼ごっこする。そし最終的にはレノの完敗で幕引きになる決まっている。

「…ディルせんせー?」

兎にも角にも、声をかけてみた。
この、完全に堅気に見えない大男の名はディル。なんと、レノの通う高校の教師で、生物を担当している。
空色の髪の毛には前髪と後ろ髪に一房真紅の髪が混じるが、染めてもいない地毛で其れなのだから本当に何者なんだか、とレノは返答もせずにレノを観察し続ける男をぼんやりと眺める。

「…レノ」

低く、少し掠れた声は酷く雄を感じさせる。ポツリとレノの名を呼んだディルは、再び纏う空気を一変させる。
今度は何処か、寂しげな。いや、とレノはその思考を振り払う。
この男が寂しいだなんて、馬鹿な、と。

「お前、俺の手をどう思う?」

唐突に投げられた質問。
男らしい声が何処と無く翳りを含んでいたのは、何故か。駄目だ、それ以上は考えるな。危険だ。短く息を吐いてレノは思考を、切り替える。
駆け引きに長けた自分へとシフトする。
下手を打てば喰われる相手だ。

「せんせ、の…手?」

しかし、情報が圧倒的に足りていない。彼が言わんとして、求めるものが見えてこない。
レノより一回りは大きくて、皺も深い大人の手。だが、この捻くれた大人はそんな在り来たりな答えなんて望んでいないし、だからそんな答えで満足するはずもない。

「そうだ、この手だ…」

差し出された手。
少しひんやりとした低体温の手。
その掌にはやはり自分より多く、深い皺が刻まれている。
この手は…。
そこまで思考して、ふと思いついた答えは酷く単純で、そして残酷な答えだった。
レノはそれを口に出そうとして、口を開いた。けれど、言葉は零れないまま閉ざされた。
もともとまともな人間関係を構築してこなかったレノだ。何時もなら理論的な発言を選ぶ。人の感情なんてものは其処に殆ど含まれない。何故なら、彼には他者の感情や痛みを理解し得る程の関係性が無かったからだ。
逆説的に言えば、彼は敢えてそう言った関係性を構築しなかった。
そんな彼が、初めて感覚的に言葉を呑み込んだのだ。
理性に感情が勝ったとも言える。

「…レノ?」

目を見開いたまま呆然としてしまったレノに今度はディルが訝しげに声を掛けた。
ビクリ、と身体を揺らすもやはり彼は答えない。まるで答えを出すことに怯えているように。
ディルもまた、レノの答えを待つことにしたのか、沈黙したまま身動ぎもせずにレノを見つめる。

レノは混乱の境地に居た。
何時もなら、こんな事にはならない。なる訳がない。必要なものは適度な距離を置いた関係性だけで、後はゲームがあればそれで良かった。良かったのだ。
なのに、いつの間にこうなっていた。
いつから?どうして?
ぐるぐる、ぐるぐる疑問と不安とが、巡り、廻って気付けばレノの目からは塩辛いだろう水分が流れて。それを見たディルが初めてニヤニヤ笑いを引っ込めた。
珍しくディルが目を見開いた。
この男、いついかなる時も動じない。寧ろレノが慌てたり、おこったり、拗ねたりするのを笑う程だ。
なのに、たかが泣いたってだけで、どうしてこの男がこんな情けない顔をするのだろう。
ヤメろ、ダメだ。これ以上は考えるな。
理性が警鐘を鳴らしている。レッドシグナルだ。踏み込まれても、踏み込んでも、ダメだ。
なのに、どうして逃げようとしないのだろう、とレノはその答えに手を伸ばしかけてまた遠ざけた。

目の前の男が、何時もなら追い討ちとばかりにからかうだろうに、沈黙して、そっと視線さえも外すから。
レノは酷い焦燥に襲われるのだ。

「…ああ、くそっ」

思いの外、情けなくて、震えた声で悪態をつく。
これが、狙いだ。
漸く、ディルの本心が見えた。見えたと同時に塞がれていた逃げ道にレノはこの男には一生勝てる気がしないと思う。

「…俺は、せんせの手、嫌いじゃない」

ぐしぐしと乱暴に涙を拭って、ぶっきらぼうに答えを出した。
素直には言えないから、せめてもの妥協点で。

「…殺して、護って、でも、嫌いじゃない」

端的に単語を繋いだ。
それだけで、この聡明すぎる男には十分過ぎるだろう。

「そうだ、この手は人殺しの手だ。それでも、お前は嫌いじゃないんだろ?」

一体いつ外したのか、口元を隠している口布を引き下げながら、ベッドの縁に腰掛けていたレノの両脇に腕をつきながら、そっとベッドに押し倒していつも通りに笑う大人。
口元には鮫のような鋭くギザギザな歯が見え隠れする。

「…そうだよ、嫌いじゃないから、部屋にも入れてんだろ!」

見下ろされながらも核心の言葉を言えないのは、羞恥心と道徳心なのだろうか。それともなけなしの矜恃からくる意地か。

「…そうだな、で?…レノ、もう解ってるだろう?」

レノの首元に顔を埋めるようにしてディルは耳朶に答えを求めて質問の形にすらなっちゃいない確信の言葉を吹き込む。その声に、耳朶に吹き込まれた吐息にビクリとして、レノはもにょもにょと呟きを零す。

「聞こえんな?」

ニヤニヤと笑っているだろう顔を見ないように逆向きに顔を背けて、レノは半ばヤケクソに言い放った。

「…どんな手だろうが、アンタの手だったら関係無いんだよ!…俺、多分、アンタのことっ!?」

最後の言葉は言わせてもらえなかった。
逃がさないとでも言うようにきつく抱き締められて、挙句首筋にあろうことか、その人間離れした歯を突き立てたのだ。

ガブリ…

歯形どころか血すら出そうな一撃に引っ込んでいた筈の涙が滲む。痛過ぎる。

「…捕まえたぞ、少年。さあ、次はどうやって楽しませてくれる?」

くつくつと喉奥で笑いながらディルは愛しげに目を細めて、やはり滲んだのだろう首筋の赤を舐めとった。

それはまるで、獲物を狙う猛禽類や爬虫類のようで。その双眸には狂気が滲んでいた。

「まあ、二度と逃がしてやるつもりは無いが…精々足掻けよ、少年」

その目に体の芯が震えて、体の中の何処かを鷲掴まれた気がした。
それでも、必死に虚勢を張ってレノはその目を睨み返して言い返す。

「…る、るせー!!逃げてやる!俺は平穏に暮らしたいんだよ!!!」

余裕たっぷりにディルはにぃ、と笑って、やってみろ。なんて言うのだ。

それでも、自覚してしまった感情と、捕まった何かがある限り、レノは逃げられやしないのだ。この、悪い大人から。



掌の上で踊るのは
(好きだ、なんて言わせてやるものか…)
(それは、俺に狂ってから言わせてやる)


→後書き
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