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地球に優しくされている

今日、久しぶりに少し大きな地震がありました。とは言っても震度3、棚の上のモノが落ちるくらい。
あの時とは比べ物になりませんが、久しぶりなので少し驚きました。

今、トルコでは大地震で300人以上の方が亡くなったと聞いています。
その少し前はタイで大水害、そして東日本大震災の少し前ではニュージーランドで大地震があって、日本人の方が犠牲になっています。
それに今年の台風の大雨被害を含めると、今年は確かに災害が多いと思います。
別に呪われてるとか、そんな事を言うつもりはありません。
ただ、人間なんてこの地上の上では本当に小さな存在なんだな、と感じます。
地球にやさしくと言う言葉が昔から言われていますが、私達が地球に優しくしてもらって生きているのですよね。

私達が、悩んでいる放射能汚染でさえ、地球にはほんの小さなことなのかもしれません。

震災前は災害が起きてその光景をテレビで見ても、はっきり言って他人事でした。
でも、震災後はやはりものの感じ方が変わった気がします。
苦しむ人たちの気持ちが、少し解るようになった気がするのです。
ほんの少しだけですけれど‥‥。

トルコやタイの皆さんに早く復興の手が差し伸べられることを祈り、願っています。

福島の宝を探せ! レッドカウの秘密

今、二本松では菊人形展が開かれています。
今年は例年よりぐっと規模を縮小してですが、その分、入場料無料で楽しめるので、そこそこ人も集まっており、楽しめるイベントになっています。

その菊人形の話題に着いては後ほど写真も撮って来たのでUPするつもりですが、今日は先日友達と二本松に行ったときに見つけたイベントを紹介します。

その名も
「リアル宝探しイベント In福島 」
コードF
特務機関レッドカウからの指令」


特務機関レッドカウは日本国内の未発見の宝を探す国家直属の超法規的帰還である。
近年、福島で暗号で構成された地図が発見されている。
コードFと名付けられたこの地図にはこんな言葉が記されていた。

「この地を愛し、平和と繁栄を願う者よ。
いかなる困難にもくじけることのない強い意思と幸せになることを諦めない前向きな心。
汝がそれらを持っているのなら我が宝を託そう。
我が試練を乗り越え、汝の意思と心をここに示せ」

なかなかそそられる話です。

なんでも最近、こういうリアル宝探しイベントを企画する会社があって、町おこしとかで結構好評なのだとか。

今回は二本松、いわき、白河、喜多方、会津若松の5都市で行われ、暗号を解読しヒントを探していくとある場所にある宝箱に辿り着く。

その宝箱に隠されたキーワードを報告するとお宝カードがもらえて、豪華景品に応募できる、というものです。

菊人形展を見た後、時間があったので友人とやってみました。
二本松には黄金の菊人形と言うお宝があるのだとか。

ヒントは三つあって、そのうちの二つが菊人形の会場、霞が城公園にあるので、探してみました。

で、もう一つは別の場所にあって、それを探して宝のある場所を推理し、お宝を見つけ出します。

二本松のは割と簡単で始めて3時間ほどでお宝を見つけ出すことができました。
で、お宝GETの景品にカードを一枚貰いました。
これはネットでやってる宝探しゲームに使えるものだとか。
本当に地方限定の
「黄金の菊人形」
カードとかだったら記念になるのにね〜。
などと話しながら、でもゲームはとても楽しめました。
他のエリアにも挑戦してみようかとしきり。


以前、桜の季節の時
「福島は原発のあるところではなく、花の綺麗な場所だと思える」
と言って頂けたので、福島でやっているお祭りや楽しイベントは出来る限り紹介して福島=原発事故や震災ではなくできればいいな、と思います。
福島のホントの宝はそこに生きる人とこうして笑いあえる事だと思うので…。



ちなみに特務機関のレッドカウ。
この意味に気が付くまで私はたっぷり、1日かかりました。
福島県人としてはまだまだ?

レッドカウの正体は明日か明後日、ご紹介しますね。

小さな祭の大きな意味

今週から田村市の秋祭りが始まりました。
近くの神社の秋祭りを兼ねているので、おみこしとかも出ます。
土曜日は雨の中、子供達がおみこしを担いで街を練り歩いていたそうです。大変だったね〜。
で、今日は晴天。昨日と反対だったらよかったのにと言う声もあったようですが、おだやかなひよりの中、けっこうな人が行政局と、公民館、そして図書館に集まっていました。

メインは子供達の作品展示や、一般の人達の作品展示です。
震災後初めての文化祭だから、何か変わるかな、特別な事があるかな?
とも思ったのですが、拍子抜けするくらいいつもと変わらない文化祭でした。

よかった。

今年の目玉の一つが、かかし展示。
公民館と行政局、図書館を繋ぐ通路に10体前後のかかしがならんでいました。
ウレタンで作ったヌリカベとか子供達が作った段ボールのとか、カオナシとか魔女とか、本物の白衣着たマネキンとか。
どれも力作ぞろいだったのですが、特に目立っていたのがこれ。
近くのグループホームのお年寄りが作った‥‥これ、かかしというか人形?

本物のウエディングドレスに飾りが色々。
顔にはしわが書かれてあってご老人の設定のようです。そばの看板には
「最近流行りの年の差婚
むごさま募集中」
とあります。

ぐ、ぐさっ!!

私だって欲しいのに‥‥。
というのは自虐的なので止めますが‥‥、この職場って意外に出会いが無いんですよね。

それはさておき
地元の力を感じるのが祭というもの。
田村は、常葉はまだまだ元気です。

このかかしさんに負けないように私も頑張りたいです。

震災から7カ月余り。
この通路を放射能に怯えながら歩いた日が夢のような穏やかで暖かい日でした。

福島は嫌いですか? 浪江さんと幸せの日々

浪江さんは103番地に住んでいます。
敷地は横に広くて大きいですが、家そのものはちょっとちいさめ。

でも緑がいっぱいで、花がいっぱいで、家からは海が見えてとっても住みよくていい町でした。

実は浪江さんには秘密がありました。

テレビで有名なダッシュ村のロケに家が使われていて、TOKIOの皆さんとお友達であったのです。
でも、そのことをひけらかすことを浪江さんはしませんでした。
テレビでも、決して自己主張せず、表に立つTOKIOの皆さんを立てて支えていて、だからきっとTOKIOの皆さんも、浪江さんのことが大好きだったと思います。

でも、大震災がやってきて、浪江さんのところは大ダメージを受けました。

海沿いのところはめちゃくちゃ。

そして緑いっぱいの森側は原発ペンキ屋さんからのインクが、最低最悪の風に乗って撒き散らかされてしまったのです。
村も人が入れない程の汚れ。
震災のあの日以来、仲良く楽しかった日々は終わってしまったように思えました。

でも、浪江さんとTOKIOの皆さんの絆は途切れたりはしませんでした。

家にも住めなくなって避難しなくてはならなくなった大変な時。

けれど、自分達の事と同じかそれ以上にダッシュ村とTOKIOを心配していた浪江さんをTOKIOの皆さんは、抱きしめてくれました。
ペンキが付くかもしれないのに。
そんなことは何でもないと言う様に何度も足を運んで励ましてくれたのです。

それが浪江さんの心をどんなに励ましてくれたかはいうまでもありません。

浪江さんちの汚れは酷くて、正直区画でも最悪レベル。

元通り家に戻って、また一緒に暮らすのは正直難しいかもしれないとみんな知っています。

でも、TOKIOの皆さんは言います。
諦めないと。

いつか、取り戻す。と‥‥。

TOKIOの皆さんや、励ましてくれるテレビの人がいる限り浪江さんもまた諦めないと思います。
いつか楽しかったあの日を取り戻す日まで。

あの日 の新聞

昨日、用事で東京に行っていました。

犬もいるので日帰りだったのですが、その時、作業用の古新聞の中に、思わず手が止まるものを発見しました。

3月12日の産経新聞です。

震災が起きたのは3月11日ですから、11日の新聞はいつものとおりのものだったはず。

号外もあったでしょうが、震災翌日の新聞、しかも東京の、全国紙の新聞が一体大震災をどう報じたのだろうと、興味があってお願いして貰ってきました。

一面は

「列島最大の激震 M8・8」

「津波30m 使者300人強超」

「壊滅的被害「100年に一度」」

一面の写真は名取市の燃えながら津波に流される住宅の写真でした。

中の記事は東京、関東の記事が主で、帰宅難民が多く発生したこと、九段会館やその他多くのホールなどの崩落事故などを報じていました。

この時はまだ、この地震が日本最悪の惨事を引き起こしているとは私達でさえ、思っていなかった事でしょう。

13日のは無かったのですが14日の新聞は一面に原発事故を、裏面にがれきの陸とかした南三陸町を報じていました。

きっと13日の新聞は原発事故の第一報だったのだと思います。
14日の新聞に載っていたどこまでも続くガソリンを求めて並ぶ車の列の写真は、私の家からそう遠くない所で、こんな形で私の街を沢山の人が見ていたのだとなんだか切ない気持ちになりました。

やっぱり、福島とは違う新聞づくりがされていたのだな。と思いながら見ていた13日の新聞にこんな文章が。

産経新聞の編集長さんのコラムです。タイトルは「あの日になる一日」ちょっとだけ
抜粋させて頂きます。

「われわれの底力が試されている」

「今こそ、ひとりひとりが自分に何ができるか考えて欲しい」

「今日は、歴史に残る新聞を作ることになるだろう(中略)将来、「あの日」の産経新聞はどんな紙面だったかとひもとく人を意識しながら作った。それは私だけではな
く産経新聞社全社員同じ思いであったろう。

例え、それがあまりにも辛く、あまりにも悲しいあの日だったとしても」

あの時、私も、多分、たくさんの人も自分と目の前の事で手いっぱいでした。

毎日、震災の記事しかなく、それも悪い情報、哀しい情報しか乗らない新聞。

避難所では誰も見たくなくて余ってしまい、子供達と紙飛行機にしてしまった新聞。

でも、その新聞にもたくさんの人が未曾有の大災害を前に、できることをしよう。という思いを込めて作っていたのだ。と、少し反省しながら、そして感謝しながら読みました。



まだ、将来と呼ぶには少し早いけれど、3月12日の新聞をあの日を思ってひもといた私の気持ちは、この記事を書いた編集長さんに、新聞を作った人たちに届くでしょうか?
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