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五月の病(榎益)

五月晴れの空が眩しい午前10時。
益田龍一は探偵事務所の給湯室で茶の準備をしていた。本日は来客の予定が無いので勿論自分の分である。清々しい爽やかな陽気とゆったりとした空気の中で益田は鼻歌交じりに急須にお湯を注ぐ。穏やかでどこまでも平和な気配が弛緩を誘った。湯を注いだ急須から立ち昇るほうじ茶の芳ばしい芳香が心地良く、更に弛緩してしまいそうだ。

今日の益田の予定はといえば、急ぎの依頼も無ければ来客の予定も無いので些末な事務処理をゆるゆると熟すだけである。先ずは手元の報告書を、ファイリングする前にもう一度目を通して倉庫へ持ち込もう。それから、ここ数ヶ月分の依頼の報告書を時系列でファイリングしよう。バタバタとしていて上手くまとめる事かできなかったのだ。
そう決めてしまうと途端にやる気が出てきた。よし、と心の中で頷いて益田は湯呑みにほうじ茶を注いだ。
「何をしている」
「ぅぎやあぁぁぁっ!」
突然耳元で聞こえた声に背筋が凍って反射的に叫んだ。心臓が爆発する程驚いた。身を竦めて振り向くと、榎木津が背後に立っていた。近い。

「お、お、驚いたぁ‥‥っ!!びっくりするじゃないですかもう!!」
「お茶を淹れているのか?僕も飲みたい」
益田の肩口から覗き込んで榎木津は云った。益田の耳元に柔らかな髪が触れた。
心臓がまた跳ね上がる。
「‥‥はあ、ほうじ茶ですが良いですか?」
それで良いと云って榎木津は益田の肩に顔を乗せた。榎木津の頬が益田の頬に触れる。柔らかくて温かい。30半ばの男の頬が何故にこの様な感触なのか益田は常々不思議に思っていた。あの白い頬が自分の肌に触れている。それだけでドギマギする胸を宥めて出来るだけ平静を装う。驚きと、それとはまた違う胸の鼓動が痛い。どくんどくんという鼓動は僅かに手を震わせ始める。
「和寅はどうした?」
「ご、ご実家の方に用があるとかで朝から出掛けています。って昨日言ってましたけど‥‥僕が来た時には既に居ませんでしたよ」
「ふぅ〜ん」
後ろから益田の腰にするすると榎木津の腕が回され、腹の前で手が組まれる。益田の薄い身体はすっかり榎木津の腕の中に収まってしまう。
意外に骨っぽい手である。自分の腹の前で組まれた手を見てそう思った。男っぽいと言い換えても良い。榎木津の外見は華奢である。けれど女々しいだとか貧弱だとかのイメージは全く無い。むしろ強さを想起させるのは姿勢や佇まいやその性格故だろうと思う。
男女問わず誰もが見惚れる美貌というのはもしかしたら中性的という意味なのかもしれない。榎木津 を女性的と思う人間もいれば男性的と思う人間もいるだろう。益田のようにそのどちらでもないと思う人間は、この場合視覚的な部分でのみ男っぽいと感じでしまう。
それに心臓を揺さぶられる自分は一体どちらの性が本当なのだろう。
「‥‥そんなわけで僕ぁ自分で自分の茶を淹れているんです。」
回された腕や肩口の熱に気付かない振りで喋り続ける。こんな時、どういう反応をすれば良いのか全く分からない。
身体を重ねて行う行為が何度かあって、二人の纏う空気にそれまでと違うものが混じり始めてから榎木津のこういったスキンシップは殊の外多く、それが益田には意外に思えて驚いている。不意を突かれる事が多くて困るのだ。取り敢えず榎木津用の湯呑みを手に取った。
取りにくい。動き難い。
「実はですね、僕はコーヒーや紅茶より日本茶の方が好きでして、」
回した腕に力を込めるでもなく榎木津はそっと益田の身体に己が身体を寄せた。
肩甲骨のあたりに榎木津の体温を感じる。筋肉量の差か自分よりも高い熱。別の生き物だと思い知る。
心臓が口から飛び出してくるのではないか。ああ死んでしまうなあと混乱をきたした頭で思う。
「こ、こ、このっ‥‥ほうじ茶だって、僕が買っておいたものなんっ‥!」
目を回しながら必死に何故ほうじ茶がここにあるのかという説明を続けていると、首筋の辺りに生暖かいものが触れてすぐに去った。それが何度か繰り返されて、キスを落とされているのだと理解すると益田は肩を竦めて顔を赤くした。
顔が熱い。
震える手が榎木津の湯呑みを落とさなかった事を誰か褒めて欲しい。
益田は流しの台の上に榎木津の湯呑みを静かに置いた。代わりに報告書の束を手に取る。
「あの‥‥僕はこれからこの、仕事が」
「しなくていいよ、そんなの」
それより早く僕のお茶をいれてくれと云いながら榎木津は報告書を握った益田の手に自分の手を重ねる。
「これは何だ?」
榎木津は益田の握りしめている報告書を掴んで引っ張った。
「ですから、今からこの報告書を然るべき時系列で然るべき所へ収納するという」
「つまり、どうでも良い事だな?」
「ど、どうでも良い事じゃないですよ!榎木津さん、僕はこれでも探偵助手として必死に」
「だから、それがどうでも良い事だと云ってるんだよ。離せ。」
益田は報告書を離すまいと抵抗する。これは益田なりの僅かな意地である。しばらく抵抗を続けた。

「離せ、」
龍一。

いつもよりずっと低い、穏やで甘さを含んだ声音を耳元で囁かれて、ちゅうと音を立てて首筋に吸いつかれる。
「‥‥ん‥‥っ!」
それは抗い難い欲を喚起させるには充分な刺激だった。益田の手から報告書の書類がバサバサと音を立てて床に散らばる。そうだ良い子だと榎木津の満足そうな声を聞きながら、くらくらと眩暈を感じて益田はキツく目を閉じた。

ああ‥‥何でだよ‥‥。
ズルいだろ、こんなの。
このおじさんの前だと僕は調子を崩す。
要領良く軽薄に、浅く広く明るく軽く卑怯で卑屈で、それが自分の筈だろう。
それがこの人の前だと駄目になる。
自分なりの意地も木っ端微塵に粉砕される。どうしたら良い?

榎木津の手が書類を離した益田の手を撫で、掌を合わせる様にして指をからめて繋がれた。それからぎゅう、と抱き締められる。
「薄いな」
首筋に顔を埋めて揶揄う調子で榎木津が呟く。益田はビクビクと撥ねようとする身体を抑えるのに必死だ。
「そ、それは‥‥人間性が薄っぺらいとかいう話ですか?だったらその通りですすみません」
いつものように調子良く答えようとしても何処か上滑りしているのが自分でも分かる。
「内面的なものが外見にも影響する質なものでお陰様でペラッペラです!」
混乱を来した頭で答えようとするから、つい声の調子が大きくなってしまう。
ああもう、みっともない。格好悪い。

「もう黙れよ」
微かに笑みを浮かべた気配の声。
それはどこまでも穏やかでいつものあの躁病染みた口調とはかけ離れた声音で、二人きりの時だけに見せる優しさや弱さを含んでいて訳もなく切なくなった。
許された様な気がして益田は振り向く。
「えの、」
その優しさや弱さを湛えた榎木津の瞳と目が合ったのは一瞬で、あとは何も見えなくなった。柔らかく固い、暖かく冷たい。その唇が益田の唇に重なった。

きゅうっ、と心臓が握り込まれる音と同時に目を閉じた。
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